2011年12月 3日 (土)

三回目の命日

3年という月日が流れました。3年という「量」的長さが僕らに何か影響を与えることはどうやらなさそうです。その数値が「3」であろうと「10」であろうと「20」であろうときっと変わりは無いように思えます。



みゅう弟です。

2011年12月3日。今日は兄貴の三回目の命日。

時間の経過とは全く関係なく、今でも毎日兄貴のことを思い出します

あんな変なハゲたおっさんのことなのに(笑)。

最近気づいたのですが、思い出すのは殆どが食道がんになってから後のこと。どちらかといえばつらい思い出としてとらえられる闘病の日々のこと。でも思い出すのはその日々の中で起きた兄貴とのたくさんの楽しい思い出ばかりです。


兄貴のことを思い出してくれて、このブログをのぞいてくれたみなさん、どうもありがとうございます。

どうか兄貴との楽しいことを思い出してもらえることを。

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2011年2月26日 (土)

食道がん ブログ 全摘出 手術

みゅう弟です。


先日、とあるところでお目にかかった方。食道がんに罹り、12年前に食道全摘出手術されたとのこと。御年63歳、今も現役でお仕事をされているそうだ。

言われて見れば確かにかなりやせておられる印象を受けるが、とても元気というかごくごく普通なたたずまい。そんな元気なお姿を拝見し、何だかとても嬉しくなってしまった。


食道がん。初期のほんの一部をのぞけばステージの高い低いに関わらず食道の全摘出手術が極めて一般的な基本形。年齢、体力、進行度合い個々の条件により、放射線治療、抗がん剤投与、放射線化学療法の選択が検討される。仮にこれらを選択した場合でも再発時は食道の全摘出手術を行わざるを得ないのが現状のようだ。

問題はその後。食道を摘出した後の再発だ。

この方の詳しい病状経緯は存じ上げないが、切った後がんが再発していない。それも12年間も。きっとこの方はもう完全に「治癒」したと言って良いのだろう。

兄貴のこのブログは、今でもコンスタントにアクセスされている。直近3ヶ月の平均でも20人/1日あたりのアクセスがある。多いときには100人以上のアクセスがある。

その多くの方がキーワード検索でやってきて、初めてこのブログをご覧になられると思われる。

「食道がん ブログ」
「食道全摘出」
「食道がん 病院」

このブログは、食道がん関連のブログでこのようなワード検索をするとGoogleなどでも比較的上のほうに表示される。おそらく食道がんに罹ってしまわれた方、そのご家族、知人、友人の方々が切羽詰った思い出で情報収集に奔走されているのだろう。兄貴もそうだったし、僕も何度こんな検索をしただろうか。

兄貴が生きていた時のこのブログの記事や内容、その他諸々の情報は、こういった方々に対してある意味、「希望」を与えるような内容、興味深い患者側の考え方などを提示していたと思うし、切羽詰まった方々に対して十分に意味のあるサイトであったのではないかと思っている。

しかしながら、今こういうアクセス状況を見ているとそうも言っていられないし、兄貴が亡くなった後のこのブログは意味合いが大きく変わってきてしまっていることを自覚せざるを得ない。今のこのブログの持っているメインの意味はやはり<三浦真司への追悼>だ。

兄貴の友人、知人達に向けて発している今のこの状態は、その機能をある程度全うしているとは思っているけれど、それ以外の方、「食道がん」検索をしてたどり着いてきていただける「切羽詰った」方々にとっては最初に持っていた「実体験に基づく食道がん情報」と「患者の希望」などを提供してはおらず、本来の意味とは別の機能が副次的に働いてしまっている感じだ。

「...結局は死んでしまったのか。」

「切羽詰った方々」に対し、こんな事実を突きつけてしまう。

事実は事実として変わり得ないのでしかたが無いことだけれども、これだけアクセスのあるこのブログを見ていただいている方々に対してはどうしても責任を感じてしまうのだ。極限状態に追い込まれている「切羽詰った方々」に対し、このブログはこのままで良いのだろうかと。

かと言って、「くさい物に蓋」的にこのブログを閉じて、人目に触れなくする気はさらさら無いし、更新する内容も兄貴の個人的な内容を中心にすることを変えようなどとは全く思ってはいない。

でも何かは...、とずっと思っている。

そんなことをおぼろげながら考えている折、前述の方にお会いした。

「あっ、そうか!食道がんって治るんだ!切っても再発しないで生きていくことが出来るんだ!」

兄貴の経験があまりにも大きく重く僕にのしかかっているので、逆にこの事実は僕にとっては鮮烈であったのだ。

せめてここを訪れていただいた方々に、

「いやいや、たまたま兄貴は死んじゃったけどさ、食道全摘しても大丈夫よ!そういう人だってたくさんいるからさ、安心してよ!」

って言える!そういう方にお会いした!!

そんな方をもうひと方、ここで紹介させてもらいたい。

彼女は殆ど兄貴と同じ様なタイミングで食道がんが見つかり、同じ様なステージからの治療開始、同じ様な治療、最終的には食道の全摘出手術と、兄貴と全く同じというわけではないが似たようなプロセスをふまれていらっしゃる。

決定的に違うのが、彼女は今元気にしていらっしゃること。お仕事をされて、旅行をされて、日常生活では多少の後遺症には苦慮されながらも日々の暮らしを送られ、人生を引続き一歩一歩踏みしめて生きていらっしゃる。

僕にとっては羨望のまとである。

もしこのブログにたどり着いて、この記事に目が止まられた「今大変な思いをされていらっしゃる方々」、ぜひ彼女のブログに目を通して欲しい。みなさまの「光」になることを願って止みません。

kuwachannの日記 - 食道癌治療・回復の記録
(闘病記を中心とした内容)
http://d.hatena.ne.jp/kuwachann/

kuwachann-2_0の日記
(日常生活を中心とした内容)
http://d.hatena.ne.jp/kuwachann-2_0/


>kuwachannさま
本ブログでの貴ブログ紹介の件、ご快諾いただき誠にありがとうございました。

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2011年2月15日 (火)

5年越しの御礼

みゅう弟です。

「お礼にお伺いしないとなぁ...。」

兄貴がこう言っていた時からもう5年近く経ってしまいましたが、昨年末やっとお会いして御礼のご挨拶をすることができました。

埼玉の大変ありがたいインチキ病院でがん告知をされた後、T病院のA先生をご紹介してくださったH先生にお会いすることが出来ました。

以前にも書きましたが、Nadjaでの酒場仲間YさんからH先生をご紹介頂き、H先生からT病院をご紹介頂きました。今回も私からYさんにお願いをして場を作っていただきました。(Yさん、いつも本当にありがとうございます。)

H先生は以前T病院にお勤めになられておられ、A先生はH先生の後輩にあたるご関係だそうです。

会ったことも無くたった一度だけ電話でほんのお少し話をしただけの兄貴のこと、食道がんという病気のこと、T病院のこと、T病院の創設者の方の言葉、ご自身のお話等々。いろんなお話をおうかがいする事ができました。

お会いすることが出来て本当に良かった。H先生のお話に、僕は驚きと感動すら覚えていました。

H先生の言葉のひとつひとつの中には、H先生の医師としての揺るぎの無い信念と、人間としての深い愛情に裏打ちされている患者さん達への献身の心が凛として存在し、僕はそれらを感じ取っていました。

H先生、本当にどうもありがとうございました。心より感謝申し上げます。


最後に、H先生は僕の目を真っ直ぐ見つめ、優しそうに微笑みながらこうおっしゃられました。



「私はあの日のことは覚えていますよ。お兄さんの声を今でも覚えています。」


 

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2010年12月 3日 (金)

二回目の命日

みゅう弟です。

 

2010123日。今日は兄貴の二回目の命日。

 

あの日から丸2年たちました。

 

 

兄貴が亡くなってから、僕としてはやらなければならない事が幾つもありましたが、それも大体のめどがついてきた感じです。

 

 

その中でも一番重要なのが、兄貴がお世話になっていた方々へのご挨拶、御礼をすること。そのことを通して、兄貴が育んできた人との繋がりを僕なりに繋ぎつつ、それを継続していくこと。まだまだ足りていないと所はたくさんあるけれど、これが僕なりの供養だと思ってやっています。

 

 

でもどちらかと言うと「兄貴のため」というよりは、僕自身のためにやっていることなのかも知れません。僕自身の中にある、どうにも消化しきれない理不尽さを受け容れるための、辻褄を合わせるための行為なのだと思っています。

 

 

これをご覧になっている皆様、三浦真司のことを思い出してくれて本当にありがとう。心より感謝いたします。

 

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2010年8月30日 (月)

アクセス

みゅう弟です。

フランスから帰ってきて、このブログの管理ページを見て驚いた!突然の異常なアクセス数増加。

検索ワードは、ほとんどが「食道がん 全摘出 手術」といった単語。普段から食道がんに関わる検索が多いけれどここまでではない。

Photo  
最近では10~20くらいのアクセス数が一気に300オーバー!

どうやらちょうど桑田佳祐さんが食道がんの手術をされた直後で、手術内容が発表された影響のよう。多くのファンの方が食道全摘出手術とは一体どんなものなのか検索されたようだ。桑田さんの影響度の大きさをこんなブログで、改めて認識させられた。

術後の経過は良いようなので、早くご快復されることを望むところである。

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2009年12月 3日 (木)

2008年12月3日水曜日18:40

みゅう弟です。



耳元で携帯の着信音が鳴り、目が覚める。朝6時前。

あわてて出ると母親からだ。今しがた主治医から電話があり、容態が思わしくないのでいつもより早く来て欲しい、とのことであった。

昨晩、友人達のお見舞いの後は体調はいまいちではあったけど普段とあまり変わらなかった。事態は良く分からなかったけど、とにかく僕だけ車で先に駆けつけた。到着すると、昨晩まで2人部屋の隣にいた方が別室に移動していた。入院中何度か見かけた緊急対応体制になっている。

兄貴は首を左に曲げ、左の頬が左の肩にのっかったような状態。目をつむり、全速力で走った後のように激しく息をしている。かなり苦しそうだ。ナースが酸素マスクの調整をしている。酸素量は昨日の倍ぐらい、血中酸素濃度が閾値を大幅に下回っている。話しかけると返事は返ってくるが、声にならない声といった感じだ。

前の日まで、息苦しいと訴えることは何度もあって、その度に酸素マスクをつけたりしていたが息苦しさが解消はされたことはあまりなかった。そんな時でも血中酸素濃度が下がったことは無かった。主治医もこの数値を見て容態急変の判断をし電話をしてくれたようだ。

血中酸素濃度は下がったままだが、この状態のままとどまっていた。この日、この病院では手術の日。兄貴の担当医を含め、朝から夜遅くまで大きな手術が続くので、医師達は病室には来る事が出来ない。対応は全てナース達だけで行われる。

母親が到着すると、声にならない言葉で一生懸命何か母親に話をしようとしている。どうやら、昨晩友人達が見舞いに来てくれたことを報告している。まもなく父親も到着。


この段階では処置といっても、何か特別に対処できるようなことは無く、痛み止めと抗不安剤の点滴を絶やさない様にすることと、酸素吸入の酸素の量を調節することぐらいしかない。この段階で酸素量はMAX値まで上がっている。

激しく息をしている状態は変わらないが、昼過ぎぐらいに血中酸素濃度の値が上がってきた。設定された閾値までには上がらないが-10ポイント程度。本人の見た目の状態は変わらないが、だいぶ安定してきたのでちょっと一安心といったところ。僕らやナースが話しかけても、かすかにうめき声を上げる程度の返答が返ってくる程度の状態。

今夜の泊り込みや医師との話をどうするかなど段取りを決めて、交替で昼食をとり、3時前ごろいったん父親を家に帰す。この段階ではこの日亡くなってしまうなんて全く考えていなかった。


眼は閉じたまま、問いかけにもほとんど答えることは無い。ただ激しく呼吸をしている。血中酸素濃度の値も低い状態ではあるが容態はしばらく安定していた。


確か夕方5時くらいだったと思う。ナースが手動式のアナログ血圧計を持って部屋にやってきた。

「血圧が急激に下がっています!」

ナース室には無線で血中酸素濃度や血圧、心拍数等が送られていてモニターされている。電動式の血圧計では測れないほど下がってしまっていたようだ。血中酸素濃度もどんどん下がっていく。

「反応してませんが本人は分かっているので話しかけてあげてください。」


対応してくれているナースが僕と母親に言ってくれた。手をさすりながら母親と二人で必死に名前を呼び続けた。



ナースに父親を呼び戻したほうがよいかと聞くと、答えはYesだった。この時点で今日が「その日」になることを覚悟した。


気がつくと、担当医のC先生が来てくれていた。どうやら手術の途中で来てくれたようだ。



あれほど激しく呼吸していたのが、徐々に落ち着いてきている。少しずつ少しずつ呼吸が静かになっていく。呼吸以外の動きをしていないので、兄貴は全く動かなくなる。それでもずっと名前を呼んでいた。


ナース室のモニターではほとんど呼吸の検出ができず、血圧も測れないくらい下がっている、とC先生が申し訳なさそうに僕らに伝えてくれた。程なく死亡の確認をした。


最後の最後まで僕と母親は兄貴の手をさすり名前を呼び続けた。2008年12月3日18:40、三浦真司は永眠した。




動かなくなった手をさすりながら、僕は心の中でこう呟いていました。

「真ちゃん、ありがとう。また、兄弟になろうね。」

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2009年4月30日 (木)

余命宣告

みゅう弟です。


「やっぱりダメだった。ガンが再発しました。詳しいことはまた。」



確かこんな感じの短い文章のメールだったと思います。2008年4月24日。兄貴は医師から余命宣告を受けた後、僕の携帯にメールを送ってくれました。

その後、4月27日に僕のバンドのライブに来てくれました。「今後の話をしたいから時間を取ってくれないかな。」その場では何も語らず後日話をすることになりました。

確か翌日か二日後だったかと思います。十条の家の近くのファミレスで二人きりで話をしました。

左頚部にくるみ大の大きさのガンが見つかったこと、治療が不可能であること、抗がん剤の投与は行わないという選択をしたこと、医師がその選択を支持してくれたこと、引き続き最後までこのまま面倒見てくれると医師が言ってくれたこと、長くても1年の命であるということ、ガンが肥大することによって引き起こされるであろう肉体的影響のこと、最後の時まで普通に淡々と過ごしていきたいと思っているということ、代替医療を勧められてそれを断ることにエネルギーを割きたくないこと、しばらくはこのことはあまり人には話したくないと思っていること、親にはどうやって話をしたら良いか悩んでいると言うこと、動ける間に旅行などに行きたいと思っていること等々。

泣き言など一度も言わなかった兄貴がボロボロと涙をこぼしながら、検査の結果、これからどうしていきたいか、を淡々と泣き言を言わずに話をしてくれました。

僕は「普通に淡々と過ごすこと」のヘルプを全力でする、としか言えませんでした。この日、僕は休職をすることを心に決めました。

この数日後には波照間島に一緒に行ったメンバーに状況を話したようです。その話を受けて、「そういうことなら思い切って、みんなでカンヌ映画祭に行こう。」という話になったようです。最後の大切な思い出の生まれるきっかけが「余命宣告」であったことは人生の「大いなる皮肉」であったかとは思います。

石垣島への旅行⇒石垣島長期滞在⇒波照間島⇒カンヌ。

最初の旅行がここにまで発展していくとは当初思いもしませんでした。それぞれが独立した事象ではあるけれど、全てが一直線に繋がっているように僕には思えてならないのです。

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2008年12月 3日 (水)

ご連絡

みゅう弟です。

三浦真司は本日18:40永眠いたしました。

いままでこのサイトをごらんになられ、いろいろとご心配頂いた皆様にこの場をお借りし感謝申し上げます。

葬儀等詳細は別途、本ブログにアップいたします。

ありがとうございました。

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2008年11月 7日 (金)

ひとつ抜け

みゅう弟です。

管②:酸素吸入 が抜けました。

今日は歩いて散歩。少しずつ良くなってきています。

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2008年11月 6日 (木)

新兵器

みゅう弟です。

痛みのコントロールがほぼ落ち着いてきています。一昨夜から肉体的負荷軽減のためにもうひとつ薬が増えました。

痛みから来る肉体的、精神的ストレスは、本人が意識するしないに関わらずかなり大きな負担を与えるそうです。ここ数ヶ月の間、痛みや不安、薬を飲む時間やトイレに起きてしまうことで長い時間連続して寝ることができませんでした。深い眠りにつくことで痛みからくるストレスを回避することがこの投薬の目的です。

今朝はその効果がすごく大きかったようで体がとても楽だったようです。

Photo

<イメージ映像>本文の登場人物とは関係ありません。

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