2010年8月
2010年8月30日 (月)
2010年8月24日 (火)
再開
みゅう弟です。
パリの記録は自分のブログにも書いておりますが、やはりここに書くべきだろうと思いました。
なし崩し的に書き始めましたが、第四幕 <自分が歩いてきたこの道を書くしかないんだね> としてTropic of Cancerを再開いたします。
第一幕:<食道がんは治るのか?!45歳へらへら男の闘病デイズ>
第二幕:<三浦真司の食道がんはひと休み>
第三幕:<三浦真司の食道がんはもう終わり>
第四幕:<自分が歩いてきたこの道を書くしかないんだね>
記事の更新頻度は極端に少なくなるかとは思いますが、つれづれに記していこうと思っております。このブログ再度ご覧になっていただいた方々、またよろしくお願い致します。
みゅう弟
渡仏巴里譚 終
みゅう弟です。
思い切って行って本当に良かったと実感しています。それも僕一人では無く家族を連れて行ってもっと良かった。
Paris、Misy。彼の地は物理的には遠く、そうそう簡単には行くことができないのが現実。時間も掛かるしお金も掛かる。一介のサラリーマンふぜいの身、一週間の長期休暇を取るのも憚れるし、高額な航空券を3人分支払うのは、コンビニでポテチを買うような簡単で楽チンな話ではないと言うのも全くの「現実問題」。
でも僕らは行くことができた。
「生きる」ことにとって大した意味の無い諸々のそういった「現実問題」を軽々と飛び越えていくだけの、強力な必然性が僕の中にあったのだ、と今更ながら思う。
「行きたい」という願望より、「行かなくては」という使命感に近い「行く」という自分の中の必然である。「行く」ことが至極当たり前のことで、何の躊躇も疑念も検討も無く、「行く」ことが最初から決まっている決定事項として自分の中で処理をされているような感じだった。
「行く」ことが決まっているので「行く」理由をつけ加えるのは簡単だ。後は「いつ」とか「どうやって」を考えるだけ。
もう一つ、これらの事よりもっと重要なのは「人」でした。兄貴と繋がっていてくれた方々、この方々がいらっしゃらなければ、どんなに自分の中に必然があろうとも、「行く」ことが無かったかもしれないし、行ったとしても、今回の旅のような意味のあるものにはなっていなかったんだと確信している。
場所や建物だけではこの旅は成り立っていない。
そこに人の繋がりがあるからこそ兄貴がそこにいるのだと。亡くなった今でも兄貴がそこにいるのだと。僕らはきっと、そこにいる兄貴と兄貴のいるそこを訪ねるためフランスに「行った」んだと僕は強く思っている。
Kさん、Iさん、今回の旅でお会いさせて頂いた皆様、本当にありがとうございました。すべては皆様のおかげでこの旅は成り立っているのです。
そしてもうひとつ感謝。
今回の旅、いわゆる普通の<夏休みの海外旅行>とはだいぶ違う。かみさんの理解と協力なしでは実現できなかった。本当に感謝をしています。そして息子にも深い感謝。
最後に兄貴に感謝です。ありがとう!
おしまい
2010年8月23日 (月)
渡仏巴里譚 ⑥ 住んだ家、暮らした街
みゅう弟です。
兄貴が住んでいた家と暮らしていた街を訪ねてみました。
兄貴が最初に住んだ家ははパリ5区のカルティエ・ラタンと呼ばれる界隈。大学を中心に街が形成されている文教地区。飲食店や店舗が立ち並ぶムフタール通りから路地をちょっと入ったところ。
ここが兄貴が住んでいた家の入口
この部屋のどこか。一度泥棒に入られたそうです。
ここに住んでいたのは約10年ぐらい前のこと。あまり辺りは変わっていないそうです。
ムフタール通り。おいしいクレープを食べました。
大学が近くにあることもあり、若い人達を多く見かけるムフタール通り。あちこちで見かける大手スーパーのチェーン店もありますが、お肉屋さん、魚屋さん、八百屋さんがなどが軒を連ねています。通りの入り口にはマルシェ(市場)がたち、おいしそうな果物や野菜などを売っています。
最終日にどうにか訪れることが出来たのはパリ12区の家と街。兄貴がパリ在住時二つ目に住んだ家で、最後のパリの旅の時もここを訪れ、友人達にマルシェを案内していたようです。
ここが兄貴が住んでいた家の入口
この日も偶然マルシェがたっておりました。かみさんと息子、3人で歩きました。
それぞれの家は外観を見るだけで中の様子をうかがい知る事も出来ないので外から写真を撮るだけ。兄貴に関わることを何か感覚的に受けるようなことはありませんでした。しかしながら、3人で歩いた街並みの中では、色んなことを感じていました。いや自分が街から感じたというよりは、自分が色んなことを想像し思い馳せるといった感じだったと思います。
「きっとここで穏やかに、ゆっくりと暮らしていたんだろうなぁ。」っと。
どちらも兄貴が好みそうな街でした。
つづく
2010年8月20日 (金)
渡仏巴里譚 ⑤ Misyへ<後編>
みゅう弟です。
ヨンヌ川沿いの小路を皆で散歩しました。家だけでなくこの辺りがどんな感じの所なのか、Iさんが案内をしてくれました。
上流の水門まで道。川沿いの景色は美しく、川の流れと木々や草花、鳥の声や近所のお宅の犬の鳴き声。行きかう人は殆ど無く僕らだけの道。
この頃になると兄貴の話しだけでなく色んな話をしておりました。皆でのんびりと歩いていると時折運搬船などが川を下っていきます。
Iさんのお仕事の話、Kさんのフランスでのオフィスの話、フランスでの生活や昔のパリの話、この辺りの地域性や暮らしている人達、日本との違い、ヨンヌ川大増水時の話。
静かな小路を皆で歩いています。今日始めて会った(と言ってもよい)大人4人と子供1人が心穏やかにこの場所を一緒に散策するのは、何と奇跡的なことか。この5人をそれぞれの関係で繋いでいた兄貴はもうこの世にはいない。亡くなってしまったからこそ繋がった、この時と場所と僕達。
兄貴がここを大好きだったのが何となく分かった気がしました。
「お兄さんがここに来てくれて、一緒に過ごした時間が一番楽しかった!」
Iさんがおっしゃってくれた、この一言が全てを表している気がします。
兄貴が静かな環境の中で、穏やかに、とても楽しい時間を過ごすことが出来た場所Misy。ただ単に「場所」としてのMisyだけがそこにあったわけではなく、そこには人がいて大切な繋がりがあったからこそ、こういう時を過ごせたのだと感じています。そしてそれは、兄貴が「自分」を取り戻すための貴重な時間だったんじゃないかと思っています。
決して表面的な感傷に浸るような悲しみにとらわれることはありませんでした。ただただ嬉しく、ただただ楽しく、心の奥底までじんわりと広がっていく不思議な心地よさを、いつまでも抱きしめていたい感触でいっぱいでした。
Iさん、Kさん本当にありがとうございました。言葉ではどうにも表すことが出来ない程の感謝の気持ちで一杯です。
またいつか。
つづく
2010年8月18日 (水)
渡仏巴里譚 ④ Misyへ<中編>
みゅう弟です。
車窓からの景色はだんだんと建物が見えなくなってき、見晴らしが良くなってくる。山並みは全く見えず見渡す限りの広大な平地が続いている。フランスの田舎の風景とはこんな感じなのかと妙に感心。
高速を降り、ひまわりや小麦の大きな畑の間をいく細い道を走る。しばらくすると小さな町に入る。古い教会や住居はパリで見たそれとは、また違う趣がありタイムスリップしてしまったかのよう。
Iさんのお宅に到着。ヨンヌ川沿いの小道に隣接する小奇麗な素敵なお宅。緑に囲まれた静かな静かな庭。ここには違う時間が流れている。
Iさんとご挨拶。僕としては、はじめましてと思っていたけれど、実はIさんは兄貴の通夜にご出席いただいて僕にも会っているとの事。
「葬儀の時は忙しそうだったし、いろんな人にあってるから覚えてないよね。」とIさん。
あの日のことを必死に思い出してみた。あっ!通夜ぶるまいの時Nadjaのテーブルにいた方だ!あの時「お兄様を愛していらしたんですね。」と話しかけていただいたのを思い出した。その話をしたら笑いながら少し照れて、家の中に案内をしてくれた。
Iさん、普段は日本で生活をされていて夏の期間だけこの別荘に滞在されているとの事。兄貴はIさん滞在中に良く遊びに来たり、不在時の管理人ではないけれど、夏以外の期間、一人でここに住んでいたことがあるそうだ。
「真司さんがここに遊びに来てくれて、一緒に過ごした時間が一番楽しかったんですよ!ほんとに楽しかった。この川で釣りをしたり、仕掛けを作ってうなぎを取ったり、泳いだりしたんですよ!」
満面の笑みで僕らに語りかけてくれました。Iさんは僕らの来訪を歓迎してくれました。
KさんもIさんとは初対面。それでもそんなことは微塵も感じさせず、皆でいろいろとお話をさせていただきました。穏やかに、和やかに、心地よい時間を僕ら家族を含め全員で共有させていただきました。
兄貴のMisyでのいろんな話。車が無い時、20kmも離れた村に自転車で買い物に行った話、皆でバーベキューをした話、隣のおばちゃんに気に入られていた話、アンドゥイエット(豚内臓のソーセージ)が好きで良く食べていた話、よく酒を飲んでいた話、楽しい話ばかりでした。
いろいろと楽しい話が進む中、Iさんは僕らが持っていった兄貴の写真を見ながらこうおっしゃいました。
「お兄さんを愛していたんですね。」
つづく
2010年8月17日 (火)
渡仏巴里譚 ③ Misyへ<前編>
みゅう弟です。
「どこか行きたい所はありますか?」
渡仏前、Kさんとのメールのやり取りのなかで聞かれていました。
僕は迷わず「兄貴がよく行っていたパリ郊外の別荘」と。僕は地名もどなたの別荘かも分かっておりませんでした。きっとKさんとも共通の知り合いの方と勝手に思い込んでおりました。
パリから南東へ約100km、セーヌ川支流ヨンヌ川に隣する小さな町Misy(ミジー)。兄貴が事あるごとに話をしていた知人の別荘はこの小さな町の川沿いにありました。
この別荘のオーナーのIさん、実は兄貴が最初にパリに住み始める時に新宿Nadjaで紹介してもらった方。兄貴がパリに住み始めてからの知り合いでした。
Kさんも兄貴がこの別荘によく行っていた事はご存知だったようですが、別荘の方がどこの誰かも分からない。でも、僕が行きたがっているのでどうにかしなくてはと、いろいろ調べていただいたのですがやはり分からない。最後は電話帳で調べてIさんにご連絡をして頂き、僕が兄貴を訪ねMisyとこの別荘に訪れたい旨をご説明していただいたとの事。
そんな事情は露知らず、僕らはKさんの車に乗せていただき、良く整備されたフランスの高速道路を走っておりました。
車中でその話をうかがい、Kさんの心遣いに本当に感謝した次第です。
フランスの高速道は良く整備されている分、各地へ向けた分岐も数多く行き先をしっかり把握して車線を選んで走らないと、あらぬ方向へ行ってしまいます。Kさんにとっても初めての地、Misy。カーナビを使って目的地へ向かいます。
(当初はレンタカーを借りて、自分で行ってみようかなどと考えていたのですが、パリ市内から高速へ出るまでの複雑な市内道、高速の目まぐるしく現れる分岐、高速を降りてからの細かい道、皆かっ飛ばす荒っぽい運転等々のことを考えると、とても自分たちだけでは行けなかったなと、ここでも改めてKさんに感謝でした。)
つづく
渡仏巴里譚 ② ふたたびの集い
みゅう弟です。
この日から数えて2年と2か月後、僕らは同じ場所にたどり着きました。
兄貴はいないけれど、僕らが代わりに乾杯!!
(まぁ、一緒に乾杯して端っこの方でニヤニヤしていたのでしょう)
Kさんが僕らの渡仏を聞き2年前と全く同じ様にみなさんに声をかけていただきました。
皆さんお一人お一人、自己紹介を兼ねて兄貴との思い出話を語ってくれました。皆さんパリ在住も長く、兄貴がパリに住み始めてから知り合った方々。カメラマンの方やコーディネーターの方など、一緒に仕事をさせていただいた方々達でした。
今まで僕が知りえなかった、パリ在住時の兄貴の様子が見えてきた感じがし、兄貴の性格がよく窺い知れるような仕事に対する取り組み方なども分かったような気がしました。
Kさんのオフィス、ガリレイプロダクション。ガレージから直結している半地下の凄くおしゃれなオフィスに初参加の我々も少々ハイテンション気味。
おいしい手料理と皆さんの優しい笑顔と共に、穏やかに、和やかに、楽しい時間を過ごさせていただきました。
皆さんにお会いすることができて本当に良かった。どうもありがとうございました。
Hさんには会が終わった後、植物園までご案内頂いてしまい、お世話になりっぱなし。息子は大迫力の博物館に大喜びでした。本当にありがとうございました。
つづく
2010年8月15日 (日)
渡仏巴里譚 ① お世話になった方
みゅう弟です。
まず、今日お会いするのは、兄貴が最初に勤めていた会社の先輩でもあるKさん。
Kさんはその会社のパリ支局に駐在した後、パリでご自身の事務所を開かれご活躍されております。兄貴は在職中ヨーロッパ取材の時などでもお世話になり、パリに住んでいた5年間でも、Kさんが携われたテレビ番組の演出や編集等の仕事をお手伝いさせて頂いており、いろんな面で長くお付き合いをさせていただいていたようです。
Kさんは兄貴が食道がんになってからも、病院や避暑で滞在したホテルなど、日本に帰国する度に兄貴のことを見舞ってくれておりました。兄貴からKさんの話は何度も聞いていたのですが、僕はその時はタイミングが合わずお会いすることが出来なかったので、この日が初対面でした。
Kさんとロビーでひとしきり兄貴の話をさせていただきました。
パリでの日々の暮らしぶりや一緒に仕事をした時のこと、ロケ先でのエピソードや忘れられない番組のこと等、色んな話をしていただきました。仕事を通した兄貴の横顔がよく分かるような気がしました。
とても印象的だった話は兄貴の仕事ぶり。「まかせて安心」だったそうです。
どんなに環境が悪くても、どんなに素材が不足していても、どんなに時間が短くても、真司さんはどうにかそれなりの形にしてくれるんです、と。状況や環境が十分に整っている中での仕事の品質は誰でも必要十分なアウトプットを出せるけれども、そうではない時に一定以上の品質の物に仕上げるのは、かなりの能力が備わっていないと出来ないこと。そんなプロの仕事をしてくれていました、と。そんな風に褒めていただきました。
僕はテレビや映像の仕事は全く無知なので、具体的にどういうことなのかさっぱり分かりませんが、Kさんのその言葉がお世辞やその場限りの取りつくろいでは無いということはKさんのお人柄と共に感じていたので、とても嬉しい気分で誇らしくも思いました。
そして、Kさんが一番ご心配してくださっていたのが、帰国後の仕事のことでした。僕自身は詳しいことは全く分かりませんが、仕事の内容そのものや仕事における兄貴の立場の大変さ等々、苦労していた様子をうかがい知り、遠くパリからご心配頂いていたようです。
ひとしきり話しをした後、兄貴が最初に暮らしたアパートを案内してくれました。
緑の扉が入口
これのどれか。一度泥棒に入られたそうです(^_^;)
つづく
<追記>
今回僕らが渡仏するにあたり、ホテルの手配やら、お世話になった方々声をかけて集めてくださったり、Misy行きの段取り、送迎をしてくださったり、パリでのいろんなことを教えていただきました。心より感謝申し上げます。
2010年8月12日 (木)
渡仏巴里譚 序
みゅう弟です。久しぶりに書きます。
先日パリに行ってきました。僕とかみさんと息子の3人で、兄貴が大好きだったパリへ。
兄貴がお世話になった方々を訪ね、兄貴が暮らした街を訪ね、兄貴の思いを訪ねる旅となりました。
以前ここにも書いたとおり、兄貴は約5年間パリに住んでいました。亡くなる7ヶ月前、余命宣告をされた後再びパリを訪れることが出来ました。最後にパリを訪れたこの時には、在住時にお世話になった方々が集まって頂きました。この時の写真を見ると、どの写真を見ても兄貴は本当に楽しそうに過ごしているのが手に取るようにわかります。
兄貴が亡くなった後、兄貴がお世話になったいろんな方々に、ご挨拶したり、お礼を申し上げたり、お会いしていろんな話をさせていただいたり出来ていたのですが、パリでお世話になった方々には何も出来ておりませんでした。
「一度、ご挨拶をしたいなぁ。お礼を申し上げたいなぁ。」などと思っておりました。
本当は亡くなった次のGW(09年5月)に僕一人で行こうと考えていたのですが、去年の散骨の旅で感じたように僕ら家族で行った方が兄貴が喜ぶような気がして、思い切ってかみさんと息子を連れて行きました。また、あたかも「4人旅」のような家族旅行でした。
目的は前述の通り、兄貴がパリ在住時にお世話になった方々にお会いすること、兄貴住んでいた家や街を訪れること。兄貴が好きだった場所などを訪ねること。
今回の旅では、この目的の全てを達成できたと感じております。今は上手くは表現できないのですが、たぶんそれ以上の「何か」が僕の心の中に宿ったような気がしています。
パリに行くために僕が考えた理由や目的と、僕らが「行くべきだった真の理由」は同じ様で実は違うような気がしております。後者は何だかまだ分かりません。きっともっと長い時間をかけて僕は理解していくのではないかと思っています。
つづく
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