2008年12月3日水曜日18:40
みゅう弟です。
耳元で携帯の着信音が鳴り、目が覚める。朝6時前。
あわてて出ると母親からだ。今しがた主治医から電話があり、容態が思わしくないのでいつもより早く来て欲しい、とのことであった。
昨晩、友人達のお見舞いの後は体調はいまいちではあったけど普段とあまり変わらなかった。事態は良く分からなかったけど、とにかく僕だけ車で先に駆けつけた。到着すると、昨晩まで2人部屋の隣にいた方が別室に移動していた。入院中何度か見かけた緊急対応体制になっている。
兄貴は首を左に曲げ、左の頬が左の肩にのっかったような状態。目をつむり、全速力で走った後のように激しく息をしている。かなり苦しそうだ。ナースが酸素マスクの調整をしている。酸素量は昨日の倍ぐらい、血中酸素濃度が閾値を大幅に下回っている。話しかけると返事は返ってくるが、声にならない声といった感じだ。
前の日まで、息苦しいと訴えることは何度もあって、その度に酸素マスクをつけたりしていたが息苦しさが解消はされたことはあまりなかった。そんな時でも血中酸素濃度が下がったことは無かった。主治医もこの数値を見て容態急変の判断をし電話をしてくれたようだ。
血中酸素濃度は下がったままだが、この状態のままとどまっていた。この日、この病院では手術の日。兄貴の担当医を含め、朝から夜遅くまで大きな手術が続くので、医師達は病室には来る事が出来ない。対応は全てナース達だけで行われる。
母親が到着すると、声にならない言葉で一生懸命何か母親に話をしようとしている。どうやら、昨晩友人達が見舞いに来てくれたことを報告している。まもなく父親も到着。
この段階では処置といっても、何か特別に対処できるようなことは無く、痛み止めと抗不安剤の点滴を絶やさない様にすることと、酸素吸入の酸素の量を調節することぐらいしかない。この段階で酸素量はMAX値まで上がっている。
激しく息をしている状態は変わらないが、昼過ぎぐらいに血中酸素濃度の値が上がってきた。設定された閾値までには上がらないが-10ポイント程度。本人の見た目の状態は変わらないが、だいぶ安定してきたのでちょっと一安心といったところ。僕らやナースが話しかけても、かすかにうめき声を上げる程度の返答が返ってくる程度の状態。
今夜の泊り込みや医師との話をどうするかなど段取りを決めて、交替で昼食をとり、3時前ごろいったん父親を家に帰す。この段階ではこの日亡くなってしまうなんて全く考えていなかった。
眼は閉じたまま、問いかけにもほとんど答えることは無い。ただ激しく呼吸をしている。血中酸素濃度の値も低い状態ではあるが容態はしばらく安定していた。
確か夕方5時くらいだったと思う。ナースが手動式のアナログ血圧計を持って部屋にやってきた。
「血圧が急激に下がっています!」
ナース室には無線で血中酸素濃度や血圧、心拍数等が送られていてモニターされている。電動式の血圧計では測れないほど下がってしまっていたようだ。血中酸素濃度もどんどん下がっていく。
「反応してませんが本人は分かっているので話しかけてあげてください。」
対応してくれているナースが僕と母親に言ってくれた。手をさすりながら母親と二人で必死に名前を呼び続けた。
ナースに父親を呼び戻したほうがよいかと聞くと、答えはYesだった。この時点で今日が「その日」になることを覚悟した。
気がつくと、担当医のC先生が来てくれていた。どうやら手術の途中で来てくれたようだ。
あれほど激しく呼吸していたのが、徐々に落ち着いてきている。少しずつ少しずつ呼吸が静かになっていく。呼吸以外の動きをしていないので、兄貴は全く動かなくなる。それでもずっと名前を呼んでいた。
ナース室のモニターではほとんど呼吸の検出ができず、血圧も測れないくらい下がっている、とC先生が申し訳なさそうに僕らに伝えてくれた。程なく死亡の確認をした。
最後の最後まで僕と母親は兄貴の手をさすり名前を呼び続けた。2008年12月3日18:40、三浦真司は永眠した。
動かなくなった手をさすりながら、僕は心の中でこう呟いていました。
「真ちゃん、ありがとう。また、兄弟になろうね。」
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コメント
もう一年たったのですね。
去年のこの日の衝撃的な記事を今も忘れません。。。
私がこのブログの存在を知ったのはすでにタイトルが「ひとやすみ」になってからだったと記憶しています。
私はごく早期とはいえ、同じ病気名で検索してたどりつき、偶然にも同じ病院であった事、またお兄様の文章とその内容に引きつけられむさぼるように過去記事を読んだ事を思い出します。
そして、お亡くなりになってからのご家族の記事でお会いした事もないお兄様の事を少しでも知ったような気持ちになり、あらためてお兄様の生き様をみせつけられたような思いになりました。
こんな言い方はちょっとおかしいかもしれませんがお兄様にはもちろん、弟さん、妹さんに感謝しています。
きっと一生忘れません。
最終回はちょっぴり残念ですが、、、
一年間の記事、本当にありがとうございました。
ご家族の皆様もお風邪など召しませぬようお身体にお気をつけてお過ごし下さい。
(おかげさまで私は退院後2年たち元気にしています。あの病院へはまだ数ヶ月に一回通っておりますので、きっとそのたびにお兄様の事を思い出すとおもいます^^)
投稿: naruto | 2009年12月 4日 (金) 16時20分
三浦さんに聞けなかったこと2 三浦さんは1980年後期にピクニックと言うテレビ番組製作会社を立ち上げました。事務所の本棚の片隅にピクニックと言うアメリカ映画のビデオが有り、社名と、この映画の因果関係が今まで気になっていましたが、ずっと聞けませんでした。三浦さんの死語一年後に昨日、なんとBS2で放送されました。内容はアマゾンで検索して下さい。三浦さんはクールに見えて実は、この映画のようなベタな人間関係が少し好きだったのが理解出来、会社名をピクニックにしたのが理解出来ました。
投稿: クルル凹 | 2009年12月 4日 (金) 20時04分
>narutoさま
コメントありがとうございます。
このブログはnarutoさんのように食道がんになられた方が、検索してたどり着いてご覧頂くことが多いようです。
兄貴も病気が発覚した時、同じ様にあちこちのブログを見ていました。それ以外にも、人づてに食道がんになられてしまった方のお話を聞いたり、闘病記を読んだりする機会が多くありました。
残念ながら、多くの方が兄貴と同じ様な経緯をたどって、最終的には亡くなられています。こういったケースの方が「治った」という場合よりかなり多いという印象を持たざるを得ない状況だとおもいます。
そんな中、narutoさんが、退院から2年も経って元気にお過ごされているというお話を聞くと、僕は何だか嬉しくなってしまいます。多くの患者さんの「希望」だと思っています。
本当に早いもので1年です。兄貴が亡くなったときのnarutoさんのブログも読まさせていただきました。見ず知らずのハゲおやじ(笑)に惜別の言葉を頂き本当にありがとうございました。同じ病院というのも何だか不思議なものです。
ご愛読頂き誠にありがとうございました。くれぐれもお体にはお気をつけて、ご自愛ください。
投稿: みゅう弟 | 2009年12月 6日 (日) 22時21分
>クルル凹さま
そんな映画があったのですね。実はこのピクニックの名前について僕も知らないのです。
確か、一度大昔に聞いたことがあったのですが、ちゃんした説明がなかったか、僕が忘れてしまったか…。とにかく覚えていないのです。
創業メンバーの皆さん、もしよかったら教えてください。
投稿: みゅう弟 | 2009年12月 6日 (日) 22時27分
1年前みゅうさんが亡くなられた日、私は父の検査結果を今か今かと待っていました。食道がんステージⅣbの父が3カ月にわたるケモラジ治療を受け、その効果確認の検査の日だったのです。夕方「奏功」の知らせに舞い上がって喜んでいたころ、みゅうさんが旅立たれていった事を、後にブログで知りました。その際もコメントを差し上げましたが、本当に切なかったです。
その父も4月に容体が急に悪化し、5月半ばに旅立ちました。みゅうさんの最期の時を今こうして拝読していますと、父の時と本当に同じで…今も涙が止まりません。
私が書いていたブログは、父の最期を書き終えたところで終わっています。でもお兄様が書かれたブログを前にした弟さんにとっては、終わらせるためには1年という時間が必要だったのでしょうね。でも癌と闘われたみゅうさんの思い、そして傍で見守った家族の思い、そしてみゅうさんが書けなかったことを書き綴った弟さんの思い…そんな家族みんなの思いがひとつになった、なんというのでしょうか、うまく言葉にできないのですが、完全燃焼した真の生きざまを見せていただいたように思います。
1年間お疲れさまでした。そしてありがとうございます。本当に・・・私も救われました。
投稿: ソフィア | 2009年12月 6日 (日) 23時22分
最後であろうメッセージを拝見してからしばらく書けませんでした・・。
でも、三浦くんが最期はご家族に囲まれて静かに旅立ったことを知り、心からほっとしました。
私も数年前に母をがんで亡くしましたが、夜中に血圧が急激に下がって、病院の電話で私たちが駆け付けた時はもう息絶えていました。
読みながら、母もどんなにか心ぼそかったどろう、なんで最期に間に合わなかったんだろう・・と改めて深く後悔してます。
社名のピクニックはあの映画からのはずです。最初に会社に遊びにいったときもポスターが貼ってありました。
「似合わない名前だねえ」なんて笑いあったのを覚えています。
彼とは長い付き合いでしたが、この1年間で一番彼のことを知りました。
何より素晴らしいご家族と友人に恵まれて、本当に彼は幸せ者です。
1年間ありがとうございました。
投稿: T | 2009年12月 7日 (月) 18時38分
>ソフィアさま
コメントありがとうございます。
ソフィアさんと同じ様に「食道がんつながり」の方に多くご覧になっていただいているようです。ご本人もさることながらご家族の方も多いようです。
そうでしたか、お父様も本当に大変だったのですね。4月から5月半ばというのは、本当に急変だった御様子で、ご家族の方々も心の整理が付かぬまま見送らざるを得ない状況というのは本当にお辛かったかと思います。
まだまだいろいろと大変なことが多いとは思います。どうぞ、ソフィアさんとご家族の皆様が、いつもお父様との楽しい思い出と供にあらんことをお祈り申し上げます。
投稿: みゅう弟 | 2009年12月 8日 (火) 13時35分
>Tさま
いつもありがとうございます。
お母様のことはさぞかしお辛いこと思います。身近な人が亡くなるとと「ああすれば良かった」、「こうすれば良かった」、「こんな風に言っちゃった」とかいう後悔は付きまとってしまいますよね。僕もたくさんあります。ただどんな状況であったとしてもTさんのお気持ちは届いていると思います。
Tさんも「素晴らしいご友人」のお一人です。本当にありがとうございます。今度、兄貴と一緒に行かれた「こ汚いモツ焼き屋」(笑)にでも連れて行ってください。
投稿: みゅう弟 | 2009年12月 8日 (火) 13時38分
みゅう弟様、お疲れ様でした。
早いものでもう一周忌、時の経つのは早いですが、三浦さんと関わった方々は何年経っても三浦さんという存在を間違いなく忘れることはないでしょう。
見事に人生を生き抜いた方でした。
投稿: kiku | 2009年12月14日 (月) 16時28分
>kikuさま
コメントありがとうございます。
どちらかというとおとなしく目立つほうではなかったようですが、みなさんの中では何だか存在感はあったようです。
いろいろと思い出していただきありがとうございます。
投稿: みゅう弟 | 2009年12月14日 (月) 23時07分
三浦社長が亡くなって、一年が経過するのですね。私は、”ピクニック”が設立された際に、三浦社長のそばで働かせていただいていました。当時、ヴァージンレコードの設立者のリチャード・ブランソンの伝記などを読まれていて、会社のこれからの夢をたくさんたくさん語ってくださっていのが懐かしいです。学生アルバイトだった私に、ご自身の大学で使用されたフランス語の教科書をくださいました。たくさんの書き込みがしてあって、ページをめくると学生時代の三浦社長をイメージすることができました。いまでも、大切に保管してあります。20歳のバースデーに、ピクニックの設立者全員から赤い薔薇を一本ずつプレゼントしていただいたのは、何よりも心に残っていて、最高の思い出です。
洒脱なイメージと、人情には結構もろかった三浦社長。どうぞ天国で安らかに。
弟さんのブログ。本当にありがとうございました。いろんなことを知ることができました。特に、三浦社長の死に際してのメッセーには、涙が止まりませんでした。
近い将来、フランスへ旅行してきます。
ブログが終了してしまうのが寂しいですが、永遠に”ピクニック”での思い出を胸にこれからの人生を歩んでいきたいと思います。会社にマネの「草上の昼食」が飾ってありました。いつかまた、あの絵のようなピクニックをしたいですね!!
投稿: ユカ | 2009年12月18日 (金) 03時58分
>ユカさま
コメントありがとうございます。
フランス語の教科書と兄貴の思い出を大切にしていただいているようで、とても嬉しい限りです。
兄貴がピクニック創設時にどんな夢を語っていたんだろう、と我が家では盛り上がっています。
僕らが思うこの兄貴らしくないエピソード。いつかユカさんのお話が聞ければなどと思っております。
投稿: みゅう弟 | 2009年12月20日 (日) 11時43分
「ピクニック」の社名の話はこちらに詳しく載っていましたね。↓
http://www.picnicpictures.jp/com2.html
投稿: みゅう弟 | 2009年12月20日 (日) 11時44分
このレス見る人、居ないかもしれませんが、2010年2月16日深夜0時10分からBS2で映画ピクニックを放送します。運よくこのレス見れた人は御鑑賞を、
投稿: クルル | 2010年2月16日 (火) 11時56分
>クルルさま
情報提供ありがとうございました!!
僕は残念ながらこの放送は見ることが出来ませんでしたが、DVDは入手しようと思っています。
どなたかこの放送を見られた方はいらっしゃるかな?
<ピクニック>にまつわる話をひとつ。社名を決定する時最後に残った候補がこの<ピクニック>と<パイナップル>という名前だったそうです。
<パイナップル>は映画があったのかなぁ?
投稿: みゅう弟 | 2010年2月17日 (水) 17時24分
私の不徳の限りで、このような事が起きているとは存じませんでした。本日たまたま共通の知人にお会いする機会があり、大袈裟ではなく涙を堪えきれません。一緒に通った新橋のジンギスカン・沖縄カウンター、新宿ゴールデン・しょん横、・・・当然お台場もですよね。
昼から飲む酒は美味でしたね。
駄目です。俺も最近は連絡を怠ってましたが、
もう一度一緒に仕事をやると約束したでしょ。
1人で勝手に逃げないで下さいよ。
投稿: もー太郎 | 2010年2月26日 (金) 23時53分
>もー太郎さま
コメントありがとうございます。
一緒にいろんなところで飲み歩いていたのですね。
やはりお酒にまつわる話と仕事をご一緒させていただいた話が多いようです。
いろいろとありがとうございました。
投稿: みゅう弟 | 2010年2月28日 (日) 10時46分