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2009年11月

2009年11月30日 (月)

メッセージ

1.現在の状況
・もう痛くも苦しくも辛くもありません。すべての不快な事から解放されて、すごく穏やかで気持ち良く自由な状態です。
・人生に悔いも、未練もありません。無念さもありません。自分の好きなことをやって人生を全うしたと思っています。
・今、僕のことを何も心配をする必要はありません。だから心配はしないでください。


2.感謝
・僕は家族を持つことがありませんでした。嫁さんも子供もいませんでした。
・でもがんになって、弟の家族と一緒にいることが多くなってからは、弟家族の一員としていられる幸せを味わうことができた。甥っ子はは自分の子供ではないし義理の妹は嫁さんでもないけれど、自分の家族と思うことが出来たし、それがとても幸せだった。
・そういう風に思うことが出来たのは、僕を自然と受け入れてくれ、そういう自然な環境を作ってくれた義理の妹のおかげだと思っている。とても感謝をしている。


3.散骨
・散骨をする時、泣かないでいて欲しい。
・骨には僕の魂は無いので、骨はもうどうでもいい。
・今回の石垣島への散骨の旅をとても楽しみしている。皆と一緒に行くよ。
・散骨する時は悲しまないでいて欲しい、大騒ぎするくらいにやって欲しい。
・散骨の旅は本当に楽しかった。



4.楽しいこと
・確かに病気の時は辛く苦しいことが多かった。
・そんな中でも楽しいことはたくさんあった。
・もう辛くも苦しくも無いのだから、そういうことは思い出さないで、楽しいことだけを思い出して欲しい。
・そうすることによって生きている人たちが悲しみにとらわれること無く、楽しく過ごしていって欲しい。

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2009年11月29日 (日)

DTM

みゅう弟です。


「単なる暇つぶしをして、有り余る時間を浪費する」ことに兄貴は焦りを感じていました。なぜならそれは本当は「有り余る時間」ではなく「残された限りある、目の前に終わりの見える切実な時間」だったからです。


兄貴はそれを言葉にして表すことはなかったけれど、僕はそれをヒシヒシと感じていました。


僕は何か意味のあるイベントを作らねばといつも焦っていました。特に僕のライブに出演してもらった後、何も予定やイベント、これといったやることというのが無かったので、より一層でした。


体が不自由な状態でも出来得ること、出来得る可能性があることのひとつが音楽でした。ギターはもう弾けなくなってしまった。それでもキーボードは片手でも音が出せる。せっかく音を出すならただ単に演奏するのではなく、何か曲を作りたい。そんな風に考えていたようです。そこでPC上で演奏したり、録音したり、作曲したり出来る環境があれば身体に無理なく「意思的に」音楽に接することができると。


兄貴が買い揃えていた、DTM関係のアイテムはうまく動きませんでした。あれこれやっても音が鳴らず、音が鳴っても変な電子音等々ぜんぜんでした。

僕らのライブの前日、ミュージシャンの友人にヘルプを頼みました。彼には兄貴の状況はそれまで伝えておらず、その日初めてガンのこと、余命のこと等を話し、兄貴のPCでDTM環境を構築して欲しい旨お願いしました。僕は焦っていたので、出来ればライブが終わったら直ぐに使いたい、一度兄貴の家に来て欲しい等々本当に無理なお願いをしてしまいました。

彼は何も言わず、直ぐに状況を理解してくれ、彼の出来得る最善の提案をしてくれました。彼はその時、個人的な大きな心配ごとを抱えていたり、新しい状況に直面していたりと大変な時期でした。そんなことはおくびにも出さず、僕の兄貴のことを最優先で考えてくれ、自分ができる最善のことを僕にしてくれました。

ちょっと時間はかかったけれど、彼のヘルプのおかげでどうにかPCでの音楽環境は整いました。それまでの間も何度も、連絡をくれたり心配をしていてくれました。


兄貴が亡くなった後、「会ったことはは無いけれど手を合わせたい」と僕の家まで来てくれました。


本当にありがとう。あの時、無理なお願いをしてごめんなさい。君の心の優しさに本当に感謝しています。

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2009年11月28日 (土)

一周忌

みゅう弟です。

命日にはちょっと早いのですが、本日一周忌の法要を家族だけで執り行いました。


あれから一年。早いものです。

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2009年11月25日 (水)

行きたかったところ 3

みゅう弟です。

赤羽生活では、<不自由な有り余る時間>が難敵でした。

痛み、極度の眠け、精神不安、全身を襲うだるさ、吐き気、便秘、下痢、腹痛、四肢の機能障害。こいつらが入れ替わり立ち代りやって来ます。こんな状態の中、出かけてもあまり体力を使わず、近隣で楽しめるようなところを一生懸命さがしていました。

ライブや映画はどうだろう、ということで何年かぶりに「ぴあ」を買ってみました。しかしながら、体力の落ちてしまった兄貴には小さい文字を追いかけるのは辛く、自分で目を通すことも途中で断念せざるを得ませんでした。



僕が「これはどう?あれはどう?」と読み上げていっても、音楽と映画にはこだわりの強い頑固もん(笑)の触手が動くようなものは殆どありません。

その中で以外にも食いついたのがこれ

「20世紀少年」(Part1) 

ちょうどロードショー公開されているところでした。

「漫画は全部読んだんだよ。」とか「浦沢直樹は俺と同い年なんだよ。」とか、幾つかこの作品に関する思い入れを語っていました。


映画には一方ならぬこだわりがあり、見た映画もケタ違いで、おそらく千本以上の単位で映画を見ていると思います。そんな映画好きを映画館に連れて行って興味のある映画を見せてあげたいと思っておりました。


結局これも映画館には見に行けず、「DVDリリースを待とう」、ということになったのですが、DVDのリリースが年明けだったのでこれもまた見ることはありませんでした。

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2009年11月24日 (火)

三浦真司の居場所 5 <家族>

みゅう弟です。

最後はここだったようです。


僕の家族と一緒にいる時間が楽しかったようです。


自分では人生において自分の家庭を持たなかった。でも僕の家族と一緒にいるときは、僕のかみさんは自分の嫁でもないし、僕の息子も自分の子供ではないけれど、自分の家族と一緒にいるように感じていてくれたようです。


そして、辛く苦しいガンとの付き合いの中で、そんなことを忘れさせてくれる楽しい時間だったようです。


前述の記事でかみさんも書いているけれど、僕らの楽しい時間が兄貴の苦しみと引き換えになっていることは、とても手放しで喜べることではないし、そんな時間がなくてもいいので兄貴が元気であったほうがよっぽどいい。



ただそんな中で兄貴が僕らの家族の一員であると思うことができ、一緒に楽しい時間が持てていたということは、僕らにとっても救いにはなっています。


兄貴の最後の居場所は「家族」だったようです。どうもありがとう。

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2009年11月23日 (月)

初めて会ったその日から

みゅう妹(in-law)です。

兄さんと初めて会ったのは街の教会で、私はウエディングドレスを着ていました。

弟にさえ、年に一度会うか会わないかの状態だったので事前の顔合わせや挨拶はなく、結婚式当日の控え室が初対面だったのです。式の後の食事会も途中で抜けて「なんでも鑑定団」のロケに行ってしまった兄さんとはほとんど会話もしないまま。

その後も年に一度、元旦の数時間、夫の実家で会うだけでした。私の父も、私も映像の仕事をしていたので共通の話題があるにはあったけれど何しろ年に数時間。お互いをよくわからないままでしたが、兄さんのエリアに入りたいわけでもなかったし自分のことを知ってもらおうともあまり思わなかったのです。なぜか夫より兄さんの方が私の父に似ていて「自分にバリアを張って黙っている男性」と居ることに慣れていたからでしょうか。

兄さんは、しかし、渡仏後、私たちの結婚記念日には欠かさず花を贈ってくれ、帰国するときはいつも息子に素敵なパリの子ども服をたくさん買ってきてくれました。


思い返すと、この頃からかもしれません。兄さんを我が家の車で駅まで送るときに車内での会話が弾みだしたのは。


そして、病が判明してからの年月の中では、これまでここに記されたように食事をしたり旅行に行ったり、酒席や部屋でいろいろ話したしずいぶんと一緒に笑いました。これらはもちろん、かけがえない時間だけれど病気にならなければ全て存在しなかったわけで。

亡き後、「お兄さんは病気になって大変だったけれど、みんなと楽しく過ごせたんだから良かったじゃない。」と言われることがありますが私たち家族は年に一度、数時間しか会わなくても、楽しい時間を一緒に過ごせなくても、兄さんが元気だった方がよかったと今でも思っています。


しかし兄さんは、そんな“タラ・レバ”な話より「おじちゃんに似てハゲたらどうしよう…」と遺影を前に真剣に悩んでいるみゅう甥っ子を「失礼だなあ」と言いつつニヤニヤ眺めてる気がしないでもない、そんなサンデーミッドナイトです。

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2009年11月18日 (水)

行きたかったところ 2

みゅう弟です。

これは9月末からの入院の時。この頃は入院中でも夜一時外出などをして出歩ける状態でした。

一時外出先を物色するのも楽しみの一つですが、行けるところも、行きたいところも限りがありました。

待合室で話をしていた時、ふとライトアップされた東京タワーを見て、「俺、そういえば東京タワーって行ったことねぇなぁ」と。

それなら今度行ってみるか、と言っていたのですが、これもまた行かぬままでした。

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2009年11月17日 (火)

三浦真司の部屋 11

みゅう弟です。

最後の入院して、痛みもひどくかなり調子の悪い時、なぜか写真を撮ってくれと。

ベッドの上で携帯で写真を撮りました。結局これが最後の写真となりました。

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2009年11月12日 (木)

行きたかったところ 1

みゅう弟です。


赤羽での生活では体調が思わしくなく寝ていることが多かったのですが、気晴らしにどこか外出したいという意欲はありました。

よく言ってたのが、「平日の午前中から公営ギャンブルとかにたむろしてるダメなおじさんに憧れるなぁ。」と。

近いということで候補に挙がっていたのがこの3箇所。


戸田競艇
川口オート
浦和競馬


「ダメ人間ツアー」と称し、行こう行こう!と盛り上がっていたのですが、結局いずれにも行けず、まずい煮込みを食べながらビールを飲むことはありませんでした。

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2009年11月 7日 (土)

三浦真司の部屋 10

みゅう弟です。

時代を象徴するような人気番組のディレクターをしていました。



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取材のため、世界中を飛び回っていました。オーストラリアには長い時で半年くらい滞在することもありました。

その後、独立してからもずっとテレビの仕事を続けていました。バイクで交通事故に巻き込まれ、半年ほど仕事を休まざるを得なくなった後、<テレビの業界>というものに、いろいろと思うところがあったようです。

いったん全てをやめてフランスに渡りました。

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2009年11月 1日 (日)

サブタイトル

みゅう弟です。

このブログの読者の皆様、どなたかTropic of Cancerの一番最初のサブタイトルを覚えている方はいらっしゃいますでしょうか?

確か、<三浦真司>という名前は入っていなく、「食道がんはxxxx」とか「食道がんとxxxx」だったとは思うのですが全然思い出せません。


どなたか覚えている方、教えてください!コメント蘭にご記入をお願い致します。

サブタイトルの変遷
第一幕:<???>
発病→最初の治療(放射線化学療法)→一度目の再発→再発後の内視鏡手術

第二幕:<三浦真司の食道がんはひと休み>
内視鏡手術後→二度目の再発→食道全摘出手術→三度目の再発→2008年12月3日

第三幕:<三浦真司の食道がんはもう終わり>
2008年12月3日以降

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