2009年8月
2009年8月31日 (月)
2009年8月29日 (土)
サイエンスフィクション
みゅう妹(in-law)です。
去年の今ごろ、兄さんが滞在していた池袋プリンスホテルと同じ場所のサンシャインシティにて「トミカ博」というイベントがありました。タカラトミー社のミニカー「トミカ」のジオラマ、アトラクション、ゲームなどがあり
ミニカー好きの小さい子どもからマニアのお友達まで集まる東京では年に一度のイベントです。
2歳くらいからトミカに夢中だった息子。小学生になってさすがに熱は冷めていたけれどこのイベントは行きたい!というので夏休みだし兄さんも近くにいるし、と行ってみたら入場記念プレゼントで一台トミカをもらいました。国産セダンが大好きで、外車はもちろん建設車両に興味のない息子はガッカリ。
会場を後にし、兄さんに部屋に行ってもいいかと携帯にメールしてみると「どーぞどーぞ^^」。即、返ってきた返事と笑顔の絵文字にこちらも嬉しくなって息子と二人でホテルの廊下を競歩するように部屋を訪ねました。
部屋に入るなり息子は“おじちゃん”に入場記念トミカを見せ「こんな変なのもらった!」と不満をぶちまけました。
兄さんは見せてくれよと言い、トミカを手に乗せまじまじと見ながら
兄さん:「SFだなあ。」
息子 :「エスエフってなあに?」
兄さん:「サイエンスフィクション」
男子は誰もが「SF」という言葉の響きの魅力に抗えないのか、聞いて息子はすぐ目を輝かせました。それ以降、一見してジャンル分け出来ないものに出くわすと息子は得意げに「SFだなあ!」。
以前から「マタンキ」(『トイレット博士』)やら「ビチグ○」(『まことちゃん』)などを息子に教えて復唱させてはげらげら笑っていた兄さんが、ふと「おれのイメージはこーいうことしか甥の記憶に残らないんだろうなあ」などと静かに言い、びっくりしたことがあったのだが下品な言葉だけじゃなくてSF=サイエンスフィクションがあったからまぁいいじゃないですかとタキシードの写真に言ってみる、そんなフライデーナイトです。
私信
厚生年金会館には無事たどり着きました。ご配慮ありがとうございました。
2009年8月20日 (木)
引越しとバイク
みゅう弟です。
2008年8月20日、十条から赤羽に引越しをしました。まだホテル滞在中なので本格的なここでの生活は、ホテルをチェックアウトしてからになります。
荷物もそう多くはないので、引越し屋さんの荷運び自体は大して時間は掛かりませんでした。荷解きは大物のみにし、諸々細かいところはチェックアウトしてからということに。それでも体力の落ちている兄貴はへとへとに疲れてしまいホテルに帰りました。
ホテルに帰ってからどうしても気になったのがバイクのこと。バイクはこの日まだ引越しをしていませんでした。精神不安が顕著に出るようになってからは、何か気になることがあると、それがたとえどんな小さなことでも、「気になること」がどんどん増幅していって大きな不安や、パニックにまで発展してしまっていました。
翌日、兄貴は自分でバイクに乗って十条の駐輪場から赤羽の家まで移動することに。
ここで予想外のアクシデント。しばらくの間乗っていなかったバイクのバッテリーが上がってしまったのです。途中一度だけエンジンは掛かったのですが結局は止まってしまいました。近隣の車整備工場やバイクさんに事情を説明し来てもらうおうとしましたがそれもNG。一度駐輪場から出してしまったこの鉄の塊を今度は押して戻さなければなりません。僕はバイクの免許などなくバイクの取り回しは全然出来なかったので兄貴が自分でやると。ガリガリにやせ細ってしまって力が全くない兄貴にとってこれを戻すのは至難の業。あれこれ試すうちにバイクを倒してしまい自分も転んでしまいました。最後は結局僕がやり方を教わりながら元に戻しました。
バイクの取り回しで倒してしまったことがかなり大きなショックだったようです。この日兄貴はバイクに乗ることを諦めたようです。
次の日、業者を手配しバッテリー交換、バイク移動をしました。もう乗れなくなってしまったそのバイクは知人の息子さんに差し上げることにしました。
HONDA CB400 Super Four
1992年
2009年8月18日 (火)
FUJIGEN
みゅう弟です。
またギターの話。
ホテル滞在中は池袋の楽器屋によく行っていました。
「もう金なんか持っててしょうがねーから、またギター買っちゃおーかなぁ。」とニヤニヤしながら言っていました。
ある日の夜、僕がホテルに戻ると、兄貴がやや興奮気味に「いいの見つけたよ。小さくて軽くてすげー弾きやすいんだよ。いやぁ、小さいけど結構鳴るんだよなぁ、これが。」と今日見つけたギターの話をしだしました。
ホテルから程近い場所にある、ギターのカスタムショップとしては老舗の「FUJIGEN」。ここでなにやら良さげなものを見つけたようです。
翌日。
「買っちゃったよ!」と嬉しそうに、ややはしゃぎながら、新しいギターを見せてくれました。
肉体的にはだんだん辛くなってきたこの時期でも、こういう小さな楽しみがあることは大きな救いでした。
三浦真司の居場所 3 <最後に会えた仲間たち>
みゅう弟です。
学生時代からの古い友人でもありますが、多くの時間は仕事仲間として過ごしたほうが長かったのだと思います。2008年最後の渡仏でご一緒した方たち、葬儀の時も大変お世話になり母親とお礼を兼ねて一緒に会食いたしました。
兄貴が番組制作プロダクションから独立、会社を立上げてからもずっと一緒に仕事をさせていただいた皆さん。皆さんからもたくさんの思い出話や石垣島・波照間島、カンヌでの旅の話などいろいろと聞かせていただきました。
母親が話しをした、兄貴が母親思いで海外取材に行った時は必ず母親の好きな香水を土産で買ってきたことや、母の日には世界中どこにいても必ず花が贈られていたこと等々。それがガンになるまでずっと続けられていたということには、皆さんとても驚かれていました。家族の話など全くしなかった兄貴の意外な一面に安堵された(笑)ようです。
皆さんは兄貴が会うことが出来た最後の方たちでした。最後の入院をしてからのお見舞いは殆どお断りをしておりました。兄貴は来て頂いてもお相手することも出来ないし、申し訳ないと気を使ってのことでした。でもこの皆さんからご連絡をいただいた時は、「○○さんたちだったら良いんじゃない?」と僕は聞いてみました。
「ああ、そうだな。来てもらおうか。」
この時兄貴はきっと皆さんに会いたかったのだと思います。僕は皆さんと連絡を取ってお見舞いの段取りをしました。
お見舞いに来て頂いた時もかなりの不調でしたが、普通に話をしたり、笑ったり、突っ込みも入れたりしてました。短い時間でしたが皆さんとお話しすることが出来て良かったと思います。
翌日、兄貴は亡くなりました。皆さんを待っていたかのようでした。
がんになってからもいろんな面でサポートしていただいた皆さんに兄貴は本当に感謝をしておりました。4人で一緒に行った波照間島、カンヌへの旅は本当に楽しい思い出で、兄貴にとって大切な自分の居場所だったようです。
皆さん、ありがとうございました。
2009年8月14日 (金)
行けたLive 4
みゅう弟です。
2008年8月9日 銀座TACTに三根信宏のLiveを見に行きました。
寺内タケシ→ベンチャーズからのテケテケつながりです。
僕は良く知らなかったのですが、兄貴は良く知っていたようで「三根信宏って知ってる?...」と言うメールが来たので調べたら、ちょうど1週間後ぐらいにライブがあるというので行ってみました。
会場は予想外に満員。予約をしてない僕らはやっとのことで最後列の席を確保できましたが、このちょっと後にSold Out!会場はジジイとババア、それとジジイにつれて来られたクラブのママみたいな人たちでごった返していて、我々中年おやじ二人組はかなりの若手。意外な人気ぶりに驚きました。
三根信宏の演奏はとても良かったもののバックバンドがいまいち。演奏する曲も、ギターの音色が映えるカッコいい曲もあったけれど、ジジイ、ババアに受けるような昭和歌謡をギターアレンジしたような曲が多くこれもまたいまいち。MCにいたっては寒いを通り越して、健常者もガンになりそうなくらい辛いもの(でも会場はバカ受け!)でした。
兄貴は「せっかくギターは良いのに、もったいねぇなぁ。今日は負け色の濃い引き分けかな。」と言いニヤニヤしていました。
ライブ終了後、機材チェックをしにステージに近づくとご本人からこれをいただきました。
結局これが兄貴と行った最後のライブとなりました。一勝一敗一引き分けでした。
2009年8月13日 (木)
避暑
みゅう弟です。
2008年8月4日から8月24日まで避暑のためホテルに滞在していました。
場所は池袋サンシャインシティ プリンスホテル。部屋の広さは30㎡弱、シングルベッドが二つのツインルーム。20泊21日の滞在でした。
食道全摘出手術後の体力は落ちる一方で、暑い夏を乗り切るのは十条での生活では困難でした。このころの体力低下は術後の食料摂取困難によるものだけではなく、再発したガンの影響が大きかったのではないかと思います。
この時には栄養補給をするだけではなく、前回起きてしまった脱水症状を回避する上でも、HPN(Home Parenteral Nutrition)在宅中心静脈栄養法が不可欠になりました。(ヤフオクで点滴スタンドをゲット!)
この頃にはモルヒネの量もだいぶ増えてきて、副作用の精神不安が顕著に出るようになってきました。深夜、不安が起こり一人だとパニックになってしまうので、ホテル滞在中は僕と母親が交代で泊まりました。
痛み止め(モルヒネ)、抗不安剤、吐き気止め、便秘薬。痛みを止める薬と副作用を抑える薬、それらの薬によって引き起こされる別の副作用。痛み、精神不安、吐き気、眠け、便秘、腹痛、四肢の機能障害、倦怠感。これらの症状が不規則に出てくるのをモグラ叩きのように薬で対処していく局面が本格化してきた時期です。
こんな状態でしたがこの頃はまだまだ元気で、日が落ちて少し涼しくなると、図書館、楽器屋、TSUTAYA、CD屋などうろうろ歩いたりしていました。たまに一人で電車に乗って新宿まで足を伸ばし、Nadjaにのみに行ったりもしていました。
また、部屋がそこそこ広かったので家からギターを何本も持ってきたり、滞在中にギターアンプを買ったり、PCと接続するスピーカーを持ってきたり。友人達もよく遊びに来てくれて部屋で宴会。さながら自宅のようになっていきました。
徐々に徐々に体調は悪化していき、辛い状況も多くはなってきたのですが、概ねここでの生活を楽しむことが出来たようです。
2009年8月10日 (月)
三浦真司の居場所 2 <なに一つ変わらない時間と場所>
みゅう弟です。
兄貴は大学時代の友人が多く、30年近い付き合いが今でもずっと続いていました。
皆さんはがんになってからも何度も何度もお見舞いに来てくれたり、葬儀の時は受付のお手伝いをして頂いたり、最後は焼き場までお付き合いいただきました。
「少し落ち着いたら、皆で集まろうと思うのでぜひご出席ください。」
大学時代の友人の皆さんが開いてくれた<三浦真司を偲ぶ会>に僕もよんで頂きました。
皆さんにとってのかけがえの無い友人を亡くしてしまったという心の痛みや悲しみが根底にはあったのだとは思いますが、なにやらとても楽しい<偲ぶ会>になってまいりました。
僕が全く知らないエピソードや衝撃の告白(?)など、皆さんの楽しげな笑顔と大切な友人へ深い思いに満ちた言葉とそこら辺の飲み屋で夜ごと繰り返されているような大笑いと罵声を通して、いろんな話をお聞きする事ができました。楽しかったなぁ。
兄貴が、こういう場所で気の置けない仲間と楽しい時間を持てていたこと、それがずーっと今も続いていること、そして何も変わっていないことも良く分かりました。僕としてはそれがとても嬉しかったのです。皆さんの深い友情と愛情を自然と感じることができました。兄貴はうらやましいなぁ、とさえ思うほどでした。
きっと兄貴も皆さんと同じ様に、皆さんのことが大好きで、大切な存在だと思い、あの場所でも一緒にゲラゲラ笑っていたんじゃないかなと思います。
あの日僕は、兄貴の居場所はこのままずーっと何一つ変わらずに続いていくんだ、と感じていました。どうやら皆さんは誰も亡くしてはいなかったようです。
皆さん、どうもありがとうございました。
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