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2006年7月

2006年7月31日 (月)

三たび首に穴

また入院してしまいました。

そして予想通り、さっそく点滴のため首に管を通されてしまったわけです。

ふつう点滴は腕からしますが、高カロリーのものを長時間入れると炎症をおこしたりして静脈がいかれてしまうので、24時間点滴の場合などには心臓近くの太い静脈に薬を送るためこのIVH(中心静脈栄養法)がとられます。

作業は病室のベッドで行いますが、プチ手術といった雰囲気で患部だけ穴の空いた布をかけて目隠しをされます。そして局部麻酔の注射、太目の点滴針のようなものを刺して静脈をさぐります。ここでへたくそな奴はなかなか静脈にたどり着けなくて何回もやり直すんだけど、今回も前と同じ若いドクターだったんだけどまた一発で成功。これがふつうなのかなあ。

ここで開いた穴にプラスチック製の硬い管のようなものを突っ込んでグリグリやり穴を広げます。そこから細い管(カテーテル)を心臓の近くまで届くようにさしこみ、反対の端には太い管をつないでその先は通常の点滴と同じ。首の穴の周辺はカテーテルが抜けないようにカバーをし縫いつけて作業は完了。仕上げにX線で胸部を撮影しカテーテルが心臓の近くまでいっていることを確認します。

とここまで書いたらナースがやって来てさっそく点滴も開始。点滴スタンドとのなかよし生活再開です。

ところで、最新のトラックバックにお気づきでしょうか。ふだんはアダルト系出会い系のトラックバックやコメントがついたりすると削除しているんだけど、これはちょっとおもしろ過ぎるのでしばらく残しておこう。

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2006年7月28日 (金)

月曜から入院

それほど待ちわびていたわけでもうれしい知らせでもないんだけど、ようやく病院から連絡があって7月31日月曜日に入院ということになりました。期間は最低二週間ということでいぜんのように副作用しだいで一時中断とかもあるのではっきりしないようです。で、一回退院してからすこし時間をおいてまた同じような入院治療をもう一回の予定。

いちおう北病棟という希望を出してはいたんだけど、入院係のおにいちゃんからは「南病棟しか空きませんでしたが、かまわないでしょうか」のおことば。ここでごねてまた一週間待つのもおバカかなあというぐらいは頭がはたらいたのでそこで手を打ってしまいました。やはり行列のできる病院に夏涸れはないようです。

北か南かという問題でいうと実は東西問題というのも存在していて、そのあたりはくわしく最新の現地調査をしないとなんともいえない部分があるので、また現地潜入後に報告できればと考えています。

先週は電話でいきなり入院を告げられたので治療のくわしい内容はきかなかったんだけど、わざわざ入院するということで予想されるのは抗がん剤の24時間投与。これは前回のように24時間首に点滴をつながれる生活が待っているということで、うっとおしいかぎりではあります。

前回のタイトルは「妄想」としたほうが正確だろうというご意見もありましたが、この五ヶ月間はほとんど現実逃避と妄想の中で生きているようなものだったわけで、でも考えてみるとそれ以前だってずっと似たようなものだったような気もするし、だからこのまま妄想と酒ばかり食らって生きていければなあとおもいながら、とはいえまた禁酒モードに入るので、いまのうちに飲みだめしておこうなどといってみたいんだけど、残念ながらそんな体力はないぜのウィークエンドです。

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2006年7月25日 (火)

陰謀

まえの病院もおなじシステムだったんだけど、入院が決まってもベッドが空いて自分の順番がいつになるかは直前まで分からない、連絡がきたらその翌日に入院ということになっています。夕方6時ごろまで電話を待ってそれから翌日の行動を考えるという落ち着きのない日々で、きょうも電話はきませんでした。前回3月のときには緊急扱いで入院が決まってから一週間待たされたし、明日はどうなるか分からないこの不安定感はきらいではないんだけどね。

ところで、今回の急な治療方針の変更にはいくつかの陰謀説がささやかれています。

陰謀その1 このブログの存在が病院側にばれていて、こいつは野放しにしておくと酒ばっかり食らってろくなもんじゃない、しばらく病院に閉じ込めて抗がん剤の実験台にでもしたほうが、本人のためにも世の中のためにもなるだろうという判断が下った

陰謀その2 先週の検査結果は違う患者のものだったことが判明し、じつは転移だらけで大変なことになっていたんだけど今さらそんなことはいえないので、とりあえず抗がん剤治療という口実で入院させておいて、あとは麻酔で眠らせて手術してしまおうという作戦

陰謀その3 ナースステーションにぼくのファンクラブがあって、このまま元気になって遠いところにいってしまうのは悲しいので、今のうちにひとめ会っておきたいという熱狂的なナースたちの熱意が医師団を動かした

陰謀その4 病院も夏涸れでたいへんなので、入院患者ゲット!サマーキャンペーンが行われている。とはいえドクターたちも交代で夏休みをとりたいのであまり手のかかる患者は困る。ぼくのように抗がん剤だけ与えて転がしておけばいい患者はちょうどよかった

脳みそも涸れてきているなあ。

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2006年7月21日 (金)

でも、また入院!

検査結果の報告にはコメントやメールをたくさんもらって、みんな、とにかく感謝しています。

きのう検査結果について何度もいわれたのは、これはあくまでがんが見えなくなるまで小さくなっただけ、治ったわけではないので安心しないでほしいということ。発芽前の根のようなものがあちこちにあっていつ姿をあらわすかもしれない、というかその可能性のほうが高いわけです。

で、今後の治療方針については、抗がん剤治療を入院で集中してやるか、2週に1回通院して続けるかというチョイスを提示されたので、じゃあ通院でということでめでたしめでたしとなりました。時はもう夕方、治ったわけではないがん患者は、検査結果がどっちに転んでもとりあえず宴会だあ、というよくない人たちが待つ六本木へ直行してしまったのです。

これでようやく先の予定が立つな、そろそろ社会復帰かななどと思い始めていたわけですが、が、ところが、夕方ドクターから直接電話があり、きょう各患者の治療方針についての会議があり、そこで三浦さんの場合はもうかなり体力も回復しているし、ここで集中的に治療しておいたほうがいいという結論になったので入院してね、ということになったのです。横の連絡が悪いというか、またかよというか、もう好きにして状態ではあります。
たぶん来週中ベッドが空きしだい入院です。期間は最低2週間を2回。さいしょに治療には半年覚悟してほしいとはいわれていたんだけど、けっきょく当たりだったわけですね。手術も放射線化学療法でも治療期間はあまり変わらないというはなしはきいていたけど、これもそのとおりということで。まあ、年間100例も食道がんを扱っている病院なんだからその程度の判断はあたりまえか。

これでブログのサブタイトルを変えられるな、どんなのにしようかな、などと考えはじめていたんだけど、しばらくこのままにします。

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2006年7月20日 (木)

消えた?

検査の結果では、リンパ節への転位を含め、がんは消えていました。もちろんこれで安心できるというわけではなく、治療は続けますが、手術はとりあえずなくなりました。携帯からの書き込みなので、簡単ですがご報告まで。

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2006年7月17日 (月)

広告の話(1)

下にでている広告についてきかれることがありますが、これはこのブログを運営するために一銭もはらっていないので、その代償としてもれなくついてきてしまうものです。どの企業の広告を出すかは、キーワードとキーワードを連動させるソフトとかが文中に登場する単語から自動的に決めているのでしょう。

清志郎の記事のあとには「RCサクセション」「コンサート」「ライブ」という単語に関連した広告がでていたし、プロレス技のあとには「週刊プロレス」の広告、検査のあとにはがん検査の広告がでていたりしました。人間がチェックしてないんだろうなあと思ったのは先週あたりにセブン・イレブン関連の広告が多くでていたので、なぜだろうと考えていたら、これはウルトラセブンという単語に反応してしまったからで、これはどう考えてもミスチョイスですね。

ジャンルとしては圧倒的にがん関連のものが多いのはしょうがないんだけど、インチキくさい免疫療法や健康食品の広告がでていたりすると、イヤだなあと思ったりするわけです。

とここまで書いておもったんだけど、具体的な企業名をだしていないにしてもスポンサーのことをこのように「インチキくさい」などと悪口をいうのはテレビや新聞雑誌では絶対タブーだということ。もちろんメディアの規模でいったら比べようもないし、お金を一銭でももらっているわけではないんだけど、広告主は広告主です。テレビでスポットCMだからといって企業の悪口が許されるってこともないだろうしなあ。

インチキくさい「がんの免疫療法」だとか、ぜんぜん効かなそうな「がん治療」だとか、お金をドブに捨てるような「がんに効く健康食品」のことを、インチキくさい「がんの免疫療法」だとか、ぜんぜん効かなそうな「がん治療」だとか、お金をドブに捨てるような「がんに効く健康食品」とか書き続けても、インチキくさい「がんの免疫療法」だとか、効かなそうな「がん治療」だとか、お金をドブに捨てるような「がんに効く健康食品」の広告は続くのだろうか?

それともソフトに悪口をチェックする機能があったり、やっぱり誰かがチェックしていて、そういう広告をストップしたり、お前そんな記事を書くんじゃないよとかおこられたりするのだろうか?

路上にある広告のよこでその商品の悪口をいってもべつにかまわないということなのか。でも、アクセス数がふえていったらそんなこともいってられないだろうしなあ。

おっ、こんどは「日本極道史」の広告がでているぞ。これは何に反応したんだろう?

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2006年7月13日 (木)

日本の宝

忌野清志郎が喉頭がんで入院しました。

自分ががんの告知をされたときの300倍くらい動揺しています。全身に鳥肌が立ち続けているような、体が半分浮いたような、どこを見ても焦点が合わないような、そんな感じ。おれってそんなに清志郎のファンだったっけ。

CDなんてもう15年以上も買ってなかったりするし、最近の活動を追っかけていたわけでもないんだけど、おととし日本に帰ってきてからはDVDで昔のライブを見なおしたりはしていました。ことし1月NHKでやった、オーティス・レディングの足跡をたどってアメリカを旅するという番組では、シャイな地のまんまレポーターをやっていて、「ここはなんか言わなくちゃいけないシーンなんだろうけど、そんなクサイせりふもなんだかなあ」という表情が随所に見られて、いい感じでした。『妖怪大戦争』にも出演していたけど、きっと三池崇史も清志郎ファンなんだろうなあ。

なんか清志郎がいるかぎりは、日本のロックは大丈夫だ、というか日本はまだ大丈夫だという気がする。忌野清志郎は日本の宝だ。

ふだんは世代的な自慢なんかくだらないと思ってるんだけど、なにを書いていいのか頭の中も整理できないし、きょうは自慢しちゃうぜ。

おれは、1980年から81年にかけて新生RCサクセションのブレイク直後のライブに何回も行ってるんだ。日比谷野音とか小さな学園祭のライブとかにも行ってるんだぜ。新生RCがブレイクするきっかけのひとつが1979年12月27日ジョニー・ルイス&チャーの武道館コンサートで、前座から会場を総立ちにさせてしまったその伝説のライブだって見てるんだ。すげえだろ。

最後に清志郎をよく知らない人のために。日本の宝、忌野清志郎はこんなバカな人です

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2006年7月12日 (水)

いくつまで生きればいいのか

シド・バレット亡くなりました

入院中に(4月ごろの話だけど)たまたまシド・バレットのドキュメントDVDを見たり、デイブ・ギルモアのソロ・アルバムが話題になったりということもあって、25年ぶりぐらいにピンク・フロイドを聞きなおしたりしていた矢先の訃報でした。変な話だけど、このニュースを知ってまず頭に浮かんだのは、ブライアン・ジョーンズのこと。

ブライアン・ジョーンズがいなければローリング・ストーンズは生まれなかったし、シド・バレットがいなければ初期のピンク・フロイドはなかった。そして二人ともバンドが上り坂の途中で精神を病んで使いものにならなくなりクビになってしまう。でも、もしブライアンやシドが残っていたら、ストーンズもピンク・フロイドもこんなにスーパー・バンドにはならなかっただろうというのも間違いのない話。

で、大きな違いは、ブライアンはクビになってから一ヶ月で死んでしまったけど、シドはそれから38年間生きてきたということ。自らの分身みたいなバンドはアルバムを三千万枚も売り上げる化け物になっていくが、自分はそこにはいない。精神を病んでいたとはいえ、完全に向こう側に行っていたわけではないみたいだし、1968年22歳のときから60歳の今年まで38年間、シド・バレットはなにを見つめ、なにを思っていたのだろう。そんな、いくら考えても答えのでないことをついつい考えてしまった次第です。長生きすればいいってもんじゃない、などというありきたりな話をしたいわけではないんだけどね。

この38年間、人目をさけて暮らすシドの姿をパパラッチが追い続けていたというのも、あまりいい話ではないんだけど、イギリスではまだそれだけのニュースバリューがあったってことで、ちょっと意外。日本では死んでもニュースにもならないもんな。

シド・バレットのDVDはレンタルでもあるし、来月にはブライアン・ジョーンズの伝記映画が公開されます。

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2006年7月10日 (月)

検査速報

きょうは精密検査ということで、内視鏡検査がかなりていねいで長時間にわたるものでした。放射線で焼いた患部周辺がかなり狭窄して(細くなって)いるということで、途中で管を細いものに換えたりもしたんだけど、カメラが体に入っているだけで30分以上はあったんじゃないかな。そのぶん、治療も検査もふくめこれまででいちばん苦しいものではありました。

とはいえ、さすがに内視鏡にもなれてきていて、モニターをじっくりと見ていることができました。カメラはゆっくりと進み、数センチごとに止まってチェック、静止画を取り込んでいきます。カメラがちょっと早く動くと映像はブレてしまう。胃のほうはほとんど見なくて食道だけでこれだけの時間をかけてやったわけで、通常の内視鏡検査は食道も胃も見てカメラは10分も入っていないだろうから、いろいろと見のがすことも多いというのは分かる話ですね。

で、とりあえず内視鏡で見える範囲では、腫瘍はきれいに消えているということです。

まあ、食道の裏側やリンパ節の転移についてはCTやエコー検査の結果を見ないと分からないのでなんともいえませんが、今日の段階ではとりあえずセーフということでした。

でも、ちょっと気になったことがひとつ。エコー検査でスキャナーを首のあたりにあてていた医者が「うーん」と声をだして診察記録をめくりだしたのです。「どうしたんですか?なんかやばそうなものでも映りましたか?」と聞いたんだけど、「いや、なんでもありません」と答える声にはかすかな動揺の気配が……(^^;

ここまでくるとトトカルチョでもやってみんなに楽しんでもらいたいところなんだけど、とにかく結果は20日です。

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2006年7月 9日 (日)

ひとさまの闘病記(9)

江國滋さんの俳句のなかでいちばんきたのが

飽きることにも飽いてゐる日永かな

というやつです。

ひと月以上退院しているとはいっても、体力の回復もいまいちで入院中よりも体調の悪い日が多かったりしている状態では、「バイクで日本一周温泉めぐり毎晩酒池肉林のどんちゃん騒ぎツーリング」などという楽しいこともできず、じゃあ体調がよければそんなことできるのかときかれても困りるんだけど、とにかく本を読んだりDVDを見たりぼおっとしたりという、いってみれば入院生活とあまり変わらない日々を送っているわけです。

体調が悪いときというのは何をしても持続力がなく飽きてしまうもので、江國さんもこのように書いています。

勤勉な人、あるいは賢い人なら、こういう無限の時間を利用して、古典文学や哲学書、仏教書、科学書などをよむところなのだろうが、どうしてもその気になれない。病床での過ごし方に、人間の器量が出てしまう。

おれなんか『ケロロ軍曹』だもんなあ。器量が出まくってるよなあ。悲しいなあ。

でも『ケロロ軍曹』はまだ飽きないから、これがちょうどいいレベルってことなのかなあ。さらに悲しいなあ。

で、実はがん闘病記なんていうものはとっくに飽きてしまっていて、退院してからはほとんど読んでいなかったりします。この江國さんの本も4月ごろ入院中に読んだのをひっぱり出してきたものです。20日の結果によってまた興味がでてきたりするのかな。

てなわけで、明日は検査です。

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2006年7月 7日 (金)

ひとさまの闘病記(8)

俳人の江國滋さんは、1997年2月に食道がんの告知を受け数回の手術の後、同年8月62歳で亡くなりました。

江國さんの場合は、それ以前に胃潰瘍でもやっていたのか食道がんになった時点で胃がほとんど残っていなかったため、通常行われる胃を細くして食道の代わりにする手術ができませんでした。そのため、食道を全摘出した後に大腸と小腸を引っ張り上げ、胸の皮膚と肋骨の間を通してのどにつなげるというダイナミックな手術になりました。

手術自体は無事終了したようですが、問題はそのあとで、つなげた部分がいつまでたってもくっつきません。これは食道がんの手術ではけっこうあることらしく、人間の体というのは縫えばどこでもくっつくというものではないようです。江國さんの場合は患部によく栄養が行っていなかったということらしいんだけど、ぼくのように放射線でめいっぱい焼いた場合も患部がもろくなっていて、そうなるケースはありがちだということでで、ひぃーな話ではあります。

このような場合はつなぎ直すしかないということで、何回も手術が繰り返されます。最初の手術は全身麻酔なので本人は眠っているうちにすべて終わってしまうのでいいんだけど、このつなぎ直しの手術は局部麻酔で行われます。意識があるのに食道のあたりを切ったり張ったりされるというのは……想像したくもないね。つないだはずの場所から食べたものが漏れる、もう一回つなぎ直そう、などということをやっているうちにがんがあちこちに転移して、江國さんは亡くなります。

このブログは闘病デイズなどとうたいながらいっこうに闘病らしい闘病をしないので、こうやってよその闘病記をもってきてお茶を濁しているんだけど、がん治療なんていつもいうように基本的には手術で切る・抗がん剤で殺す・放射線で焼くしかなく、はっきりいってがん闘病記なんてどれも似たようなものになります。それをわざわざ紹介してみようと思うのはそれなりに読み物としておもしろかったからです。

おもしろいというのは文章にそれなりの芸があるものなわけで、けっきょくは文章を生業とするひとのものが多くなってしまいます。この本はそのひとつの極にあるなあと思っていて、それはなによりも闘病中に詠まれた俳句のひとつひとつが、どんな饒舌な文章よりも食道がんという病気、その闘病の雰囲気を語っているところにあるのです。

生きて飲む流動食や夏近し

山葵もう食えぬからだとなりたるか(テレビ「わさび特集」を見て)

目にぐさり「転移」の二字や夏さむし

『おい癌めくみかはさうぜ秋の酒~江國滋闘病日記~』新潮文庫2000(初刊は新潮社1997)

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2006年7月 5日 (水)

原爆固め

前回の『ウルトラセブン』の話にいくつか反響がありました。意外なところではうちの弟までかつてオークションで買ったことがあるというし、検索してみるとこの幻の12話について熱く語っているサイトも多く、『ウルトラ』シリーズのファン層の厚さを感じさせます。なかでもこのサイは『ウルトラマン』のデザイナー成田亨さんのインタビューもおもしろいし、その後の経緯などもよく調べていてついつい読んでしまいます。

マニアの情熱と愚かさいう意味では、コメントをつけてくれた大阪凹さんの話はとても感動的でした。高額でゲットしたメディアがLDだったというのがまた涙を呼びます。LDなんてもう死滅したものだと思っていたんだけど、パイオニアで一機種だけ生産を続けているようです。

2002年にいちど生産中止を発表したところ抗議が殺到したために、生産を継続することにしたみたいです。知人に、定年退職後に楽しもうと映画などのLDを何千枚も買い集め、実際に定年の時にはDVDの時代になっていたという悲惨な人がいるけど、そういう人には今のうちに10台ぐらい買っておいてもらって意地でもLDを見続けて欲しいものです

また、タブーに関連した話でちょっとおもしろいメールをもらいました。プロレスに「原爆固め」という技があって、ぼくが子どもの頃にはたしかに「原爆固め」と呼ぶのがあたりまえでした。それが『週刊プロレス』に抗議があって、それ以後「原爆固め」ということばは使われなくなり『ジャーマン・スープレックス』という表記に統一されたというものです。

『週刊プロレス』というのはかつては月刊で一部の好事家のための雑誌という趣があるものでしたが、1983年に週刊になり一時は発行部数が20万を超える巨大なメディアと化していきました。「原爆固め」という呼び名が使われなくなったのはちょうどこの時期と一致するようで、マス・メディアのことなかれ体質を……というほどたいした問題じゃないんだけどね(^^;

この『週刊プロレス』に抗議したのが『ウルトラセブン』12話のときと同じ団体だったりするとかなりおもしろい話になるんですが、そこまではまだ確認できていません。

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2006年7月 3日 (月)

幻の作品

ぼおっとしているうちに七月になってしまいました。治療が終了してから一ヶ月。のどの通りはかなりよくなってきているのですが、体力の回復がいまいちというか、はっきりしない日々が続いています。ちょっと元気になって外出したとおもったら、なんかだるくなって二三日ぐったりしているという半人前生活。医者の話では、免疫力や回復力が下がっているとのことで、そういう状態のところを暑さにやられてというところなのでしょう。でも、免疫力だの回復力だのというのが血液で分かるものなんですね。

てなわけで、相変わらずごろごろしているなかで発見したのが『ウルトラセブン』幻の第12話。ひまにまかせてチェックしてみたところ、なんだ見たことあるじゃん。この回が幻となったことの経緯を再確認してみると、昭和42年の本放送時にはきちんと放送されていたということなので、リアルタイムで見ていたってことね。で、内容はというとやっぱりどおってことない話で、幻になったことによって付加価値がついてしまったということのようです。前田アンドレ戦みたいなもんですね。

ただ、このサイトでおもしろかったのが「百窓の家」についてのレポート。マニアの情熱を感じます。たしかにこの建物、当時いろんな番組に登場するのを見た記憶があります

でも、この回をタブーにしてしまったきっかけが中学生の指摘だったというのもかなり出来すぎの怪しい話で、いろいろと裏があったんだろうなということを想像させます。30年前の話ですべては闇の中だし、いまさら掘りかえすほどのことでもないんだろうけどね。この手の団体の抗議というと、てんかん協会と筒井康隆さんの事件を思い出しますが、問題とすべきはメディア側の態度ということでしょう。さいきんマス・メディアの弱腰がよく指摘されますが、昔のマス・メディアには気骨があったなんてかっこいい話はなくて、30年前も似たようなものだったという、それだけのことです。

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