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2006年6月19日 (月)

今日死んでも

川上宗薫が、食道がんを告知されたことを伝えたときの親しい友人の反応を書いているなかに感動的な一節がありました

色川武大さんはまったく慰め言葉を口にしなかった。彼は、もともと自分が今日死んでも不思議ではないと思っている。昔友人の一人が自殺したいといった時には仲間と一緒に自殺壮行会をやって賑やかに飲み明かしたという傑物である。彼ほど無残なものも含めたいろいろの形の人の死を見てきた人はいないだろう。彼は、私の電話を聞いてもべつにおどろいた風はないのだが、それでいて<わかっているな、この人は>と思わせるものが伝わってくる。(川上宗薫『おれ、ガンだよ』海田書房1985、1985年死去)

この「自分が今日死んでも不思議ではないと思っている」という類の死生観をひけらかす人はたくさんいて、池田晶子なんかも「自分は生と死はなにも変わらないと思っているので死ぬことはなにも怖くない」といったようなことをあちこちで書いていたりするんだけど、これは色川武大だからこそ「うーん、そうなんだろうなあ」とずしっと伝わってくるものがあるわけで、池田晶子だと「けっ、笑っちゃうぜ」になってしまうのです。

川上宗薫じしんは自分の死についてはそんな悟ったようなことはなにも語っていなくて「数多くの女とのやり過ぎはガンの原因になることはないであろうか」などとくだらないことを書いている。がん患者の鑑なのです。

余命一年を告知された中野孝次も、自分はこの日の「心構えの訓練をセネカをよみながらずっと続けてきた」から動揺などしないのだと強がります。

人の生きる時は「今ココニ」だけ、これは唐代禅僧のだれもが実行した生であり、ローマのセネカはほうぼうで、自分はその日その日を最後の日として生きている、と言っている。

セネカは、人生がどこで打ち切られようとも、わが幸福なる人生に何一つ欠けるものはないと言い切る。
(文藝春秋2006年7月号『ガン日記』、中野孝次は2004年食道がんで死去)

がん告知を受けても平静でいられる自分を強調しようとはしているのですが、日記には「一年を感謝して生きよう」「一日一日を大事に生きていこう」などという微妙な悟りきれなさが散見して、それはそれで、正直でいいんじゃないかと思うものではあります。

「死は怖くない」という悟ったようなことを言いたがるひとはたくさんいるわけで、別に誰が語ってもいいんだけど、中途半端な奴が声高にそんなことを語ってもなにも伝わってはこないよね、というはなしです。

ぼく自身は、死が怖い怖くないなどという以前に、この期に及んでもいまだに「死」なんてリアルに感じられないわけで、これは単に鈍いだけなのかなあ。

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コメント

子どもの頃から身近な人たちの死を体験してきて、しかもほとんど急死だったから、ある意味病死って羨ましいような怖いような。あの時あーしていれば・・・という後悔を常に抱きながらも、きっとあと何日の命ですと言われたからって、何もできない何日間を一生ひきずって行く。いつ死ぬかなんて誰もわからないのに。
私の願いは一つだけ。皆ネロのように最後は安らかにがいい。

投稿: | 2006年6月21日 (水) 00時52分

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